総裁室特別上級顧問の小西歩さんに聞く
Inside ADB | 2020年07月20日
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キャリアパス
東京教育大学附属高等学校→アテネ・フランセ(仏語科)→早稲田大学商学部および米オレゴン州立大学教養学部卒→国連西アジア経済委員会(現:西アジア経済社会委員会)(イラク)→ニューヨーク国連本部(ナミビア理事会、信託統治理事会)→ニューヨーク大学大学院(経済学修士)→国連アフリカ経済委員会(エチオピア)→ADB入行(教育分野のプロジェクト・エコノミスト→旧地域局(東地域)企画調整第二課長→東南アジア局ガバナンス・金融・貿易課長→ベトナム事務所長→太平洋州局次長→東アジア局長などを経て現職)
高校卒業後フランス語学校に半年通った後、早稲田大学に入学。大学3年目に米国オレゴン州立大学に留学した際、親しくしていただいていた先生から強く勧められことがきっかけで国連職員採用競争試験を経済職分野で受験しました。まだ学部生だったにもかかわらず運良く合格し、国連から採用通知を受け取った翌月オレゴン州立大学を卒業し日本に帰国しました。戻った早稲田大学では米国で取得した単位を認めてもらい、卒業式を待たずに国連本部職員としてイラクにある西アジア経済委員会(現:西アジア経済社会委員会)に赴任したのが23歳の時です。学部レベルでは2つの大学を卒業したことになっていますが、日本での大学生活は2年半、米国では1年3カ月でした。大学院は勤労学生でしたからこの道38年間、国際協力一筋のいわゆる「たたき上げ」です。
キャリア・エピソード
私が赴任した当時のイラクはイラン・イラク戦争の真っただ中で、暮らしていくこと自体がそもそも大変でした。現地のタクシーはほとんど新車のベンツでしたが、メーターが付いているのに実際の料金は交渉で決まるのは何故なのかとエジプト人の同僚に質問したところ、「同じ距離に同じ料金を払うのが平等という考え方は必ずしも正しくない」と言われたことを思い出します。豊かな人も貧しい人も、「移動しなくてはいけない事情」がある限りにおいて、それぞれの人がそれぞれの富のレベルに従って適切だと思える料金を払える交渉システムの方がむしろ平等・公平だという考え方もあるとの指摘に、自分の持っている「常識」がいかに狭いものかと痛感させられました。
イラクでは体重が50キロを割りこみ、この調子で痩せ続けては危険という健康上の理由からニューヨーク本部に異動となり、ナミビア理事会や信託統治理事会の事務方の仕事を担当しました。さすがに修士号も持たずに経済職というのはまずいと夜はニューヨーク大学の大学院に通い、開発経済学で世界的にも広く使用された教科書の著者であるマイケル・トダロ先生のもとで修士論文を書きました。国連本部では第二次大戦後、日本が国際社会に復帰した直後に職員となった日本人の大先輩たち(七人のサムライと呼ばれていました)の何人かに直接お会いすることもでき、中でもトーマス田中と呼ばれていた田中久種様にはひとかたならぬお世話になりました。その後、アディス・アベバにあるアフリカ経済委員会に異動となったのですが、その際、後の事務総長コフィ・アナン氏に直接背中を押していただいたことを思い出します。アフリカ経済委員会では、世界銀行の構造調整ローンを批判したカートゥーム会議の準備資料の作成等に参加しました。その後ADBに転籍してきたのは29歳の時です。各国の話し合いの場としての国連から、プロジェクトの現場に移りたいという思いが強くなっての転籍でした。
キャリアの原点は、中学生の時に新宿駅で見た飢餓に苦しむビアフラ(ナイジェリア東部に一時期あった国)の子供たちの写真展なのかなと思っています。飢餓と病気でガリガリなのにお腹だけポンと出た子供たち。何かしてあげたいと思う気持ちと、何もできない自分への歯がゆさ。何か少しでも自分が出来る事を見つけたいという思いをずっと抱えてきました。
ADBでの担当業務
教育分野でのプロジェクト・エコノミストから旧地域局(東地域)企画調整第二課長(当時はプログラム局と呼ばれていました)、東南アジア局ガバナンス・金融・貿易課長、ベトナム事務所長や太平洋州局次長、東アジア局長などを務めた後、2017年10月から総裁室特別上級顧問として勤務しています。現在の主業務はADBの各部局を跨ぐ、今よく言われるところのDX(デジタル・トランスフォーメーション)の土台となるデータ統合に関する仕事や、「一帯一路」やアジアインフラ投資銀行(AIIB)、また、新開発銀行(BRICS銀行)などと政治的要素を考慮しつつ適切な協力関係を構築していくことなどです。
AIIBに関しては今回の新型コロナウィルス対策でADBとの協調融資が良い方向に進んだことを喜んでいます。データ統合に関しては50年余のADBの歴史の中で各部局が独自にシステム開発を進めてきた経緯があり、「同じことを指しているのに用語が異なったり、同じ用語でも意味が違ったりする」のを統一していく必要があります。ただどの部署も自分たちに馴染みのある用語を変更することには強く抵抗しますし、そもそも何がどう違うのかはっきり認識されていない場合が多く、各局の協力のもとOne ADBとしてデーター・ディクショナリーを導入できたことはそれなりの成果かなと思いますし、データ・ディクショナリーの今後の発展・充実に期待しています。
仕事のやりがい
ADBに入行してから30年余りが経ちますが、これほど長くいるとは思っていませんでした。むしろ数年経験を積んだらまた別の職場で開発の仕事に関わっていくつもりだったことを今でも思い出します。しかし、「辞めよう」と思った時にはいつも「今辞めたらもったいない」と思ってしまうような状況が起こりました。例えば1997年、教育分野のプロジェクトの案件作りに少し倦怠感を覚えてきたところで起きたアジア経済危機の際、ADBの対応は金融と社会政策双方を見据えた緊急支援を行う事でしたが、対タイ国支援での後者の担当となりました。そこで「経済危機下に置ける社会政策運営全般」の中での優先政策を考え失業対策や保健行政にも踏み込んだ5億ドルの政策ローンを仕上げたことは、私のキャリア上でも大きな転換点でした。
2006年にベトナム事務所の所長になって感じたことは、ADBの現地事務所長というのは「ADBの現地代表」という側面と同時に、一方では相手国とADBを繋ぐ接点のような役割も持つのかなという点です。つまりベトナム政府に「こうやったらADBを一番効果的に活用できますよ」と第三者的にアドバイスすることも期待されていた気がするという意味です。又、ベトナムに公的融資を行っていた6つの融資機関の集まりの「6Banks」の活動にも力を入れましたが、ADBを含めて国際機関で働くということは必ずしも組織の一つの歯車になるのではなく、むしろ国際公務員としての「個人」を磨いていくということでもあるのかなという気がしています。ベトナムを含めモンゴル、中国、インドネシア、パプア・ニューギニア、ラオス、タイ、バングラデシュなど、様々な国の人たちと一緒になってそれぞれの国の未来について語り合ってこられたのは幸せなことでした。特に5年余住んだベトナムや25年以上その変化を見守ることの出来たモンゴルには特別な思いがあります。
今ADBは新型コロナウイルスの感染拡大に伴う様々な対策を講じています。開発途上国の視点に立って途上国主体の対策をサポートしていくという取り組みはまさにADBのDNAそのものですし、ADBが各国で行っている支援を熱い思いをもって主導している同僚たちのことを心から誇らしく思います。
SDGへの取り組み
実は30年前にも、ADBは既にジェンダーなどの問題にしっかり向き合っていたと思っています。当時は、「女性と開発(Women in Development)」という言い方をしていました。私が実施管理を担当していたバングラデシュの放送大学設立のプロジェクトも、そのターゲットは若くして結婚し就学機会を奪われる女子中学生を対象に、ラジオ放送を通じて教育の機会を提供する事でした。その時代からMDGsを経てSDGsへと国際社会は動いてきた訳ですが、そもそも開発をどう捉えるかという大きな流れの中にSDGsという共通のビジョンがあるのだと思っています。そういう意味ではSDGが他の開発機関やパートナーの人たちとも分かち合える言葉や目標を与えてくれたという感覚でしょうか。一方で、ジェンダーや環境問題を含めSDGを専門家だけのものにしてはならないという意識を強く持っています。
求められるスキルや経験
私自身はあらゆる職位の方の言うことをしっかり聞くという事を心掛けています。ADBに入行し、こちらがまだ駆け出しのミッション・リーダー時代に、それでも正面から議論させて下さったバングラデシュのユスフ教育省次官やインドネシアのスカジ高等教育総局長からは多くのことを学ばせていただきましたが、一方でお二方とも若輩のこちらがプロジェクトの現場で見聞きし考えたことをとても丁寧にお聞き下さっていたことを今でも鮮明に覚えています。私の場合ADBでは職位はレベル1から10まで経験していますが、プロジェクトの形成・実施管理に直接携わっていた最初の10年間、現地スタッフやアシスタントの仕事の細部にも触れさせてもらったことは最近のデータ統合の仕事ではとても役立っています。「ADB」を目指す皆さんへのアドバイスをとのことですが、ADBなどの国際開発金融機関は様々な分野の専門家を必要としており、僭越ですがどんな分野にせよまずはその分野の専門家として研鑽を深められることが必要だと思います。一方根底では「開発」に対する情熱や熱意がとても重要であり、英語などの語学については、流暢であることよりも、常に相手の発言の背景を考えながら相手にきちんと理解してもらえるように、言うべきことをはっきりと伝える能力が大切だと感じています(ADB内ではインド訛り、中国訛り、オーストラリア訛りの英語やジャパニーズ・イングリッシュ等が飛び交っていますが、相手国政府のそれほど英語を得意としない方々ともしっかりと意思疎通を行える能力が大切だと思います)。
プライベート
マニラでの暮らしはこの30年で大きく変化しました。私と家内が来比した当時は日本の食材を買うことは難しく、野菜なども日本人コミュニティの中で共同購入していました。豆腐や蒟蒻は日本から粉末を調達して自家製。そんな時代でしたからビザの問題もあり余程のリスクを取らなければ配偶者の就労とかが考えられるような状況ではなかったので、家内には申し訳なかったと心から思います。趣味、ということでは途上国向けの趣味と言われてしまいそうですが、壊れたものを自分で修理したり修理に出したりすることでしょうか。ただ、30年前に他の人達をまねて中古車のパーツで自動車を一台組上げてもらった際は、ほぼ毎週末小さな自動車整備工場に通うことになり大変でした。今では街を走る「手製」の車は、フィリピン名物の乗合自動車のジプニーと現金輸送車以外はほとんど見れなくなりました。現在のマニラは今回ADB本部が完全なリモートワークに驚く程スムースに移行出来たことからも言えることですが、ネット環境もまあまあ良いですし、それなりに暮らしやすい街になったと感じます。私の趣味も今はちょっと優雅にテニスとサックスの練習となり、そういう意味でももっと多くの方にお気軽にADBに応募していただければと思います。
実は30年余り務めたADBをもうすぐ定年退職します。未だどういった形になるかは分かりませんが、やはり開発の仕事には関わり続けたいと思っています。これまで蓄えた知見を開発の現場に役立てたいという気持ちを抱きつつ、また、プロジェクトの現場にこだわりを持って関わり続けたいです。2011年の東日本大震災の後、当時高校生だった息子を連れて石巻でボランティアをしたのですが、現場に居て初めて分かることが沢山あると痛感しました(上の集合写真はその時のものです)。とはいえもう余り肉体労働が出来る年齢ではないので、いっそブルドーザーとかショベルカーとか、特殊車両の免許を取りたいと思っています。