東アジア局首席業務調整専門官の田村由美子さんに聞く
Inside ADB | 2022年01月13日
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キャリアパス
女子聖学院中高校→青山学院大学国際政治経済学部卒(米国オレゴン大学留学)→青山学院大学大学院国際経済学修士 →国際金融情報センター→ADB入行(西プログラム局→総裁室→メコン局→東南アジア局→ベトナム事務所→ミャンマー事務所→現職)
私は日本で生まれ育ち、教育を受けてきたものの、思い返してみると幼い頃から漠然と外国に興味がありました。中高一貫のミッションスクールで徹底した英語教育を受け、高校時代に経験したホームステイがきっかけで、将来は国際関係に携わる仕事に就きたいと考えるようになりました。私自身が裕福とは言えない家庭環境で育ったこともあり、竹中育英会の奨学金を得て、大学では国際政治を、大学院では開発経済を専攻し、途中、別の奨学金でアメリカの大学に1年間留学しました。留学先で知り合った、内戦の祖国を命懸けで逃れてきたカンボジア難民の友人との出会いは、私のその後の生き方やキャリア形成に大きな影響を及ぼしました。貧困削減や社会的課題の解決に直接携わりたいという思いから国際開発金融機関で働くことを志すようになり、開発問題をより日常で感じられるように、国際機関では珍しく途上国に本部を置くADBに照準を絞りました。
大学院時代は学業と並行して欧米コンサルティング会社の日本事務所で働きました。大学院修了後は、世界各国の経済動向の調査・分析を行っている財団法人に就職し、タイやインドシナ諸国を担当するエコノミストとしてマクロ経済予測やカントリーリスク査定などを行いました。その後、ADBに応募し続け、1998年にタイやミャンマーを担当するエコノミストとして採用されました。
ADBでの担当業務
ADBに入行して今年で24年目を迎えました。本部とフィールドは半々くらいの割合で、その大部分は、オペレーションとマネジメントサポートに係る業務に携わってきました。オペレーションでは、前職と同様に一貫してメコン河流域圏(GMS)地域のベトナム、タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジアの国別支援戦略(CPS)策定・実施、経済分析、ドナー間調整に係る業務を担当しました。
ADBに入行したこの時期、アジア金融危機により影響を受けたタイの経済回復を支援するための融資枠を大幅に拡大する必要があり、刻々と変化する経済情勢を毎週マネジメントに報告したり、社会経済全般にわたる包括的な政策支援融資(policy-based lending)の策定や実施に加わり、多忙な日々を送ったのを覚えています。域内の経済政策や財政状況を監視する内部組織や、通貨危機に関する早期警報システムの構築に至ったのも、この金融危機がきっかけでした。また、現地通貨建て債券市場の発展の促進に向けた支援なども積極的に行うようになりました。(2005年に同国に現地事務所を設立した際には、当時のメコン局で準備段階から本格的業務開始まで携わることができました。)
ミャンマーにおいては、1980年代末の政変とその後の返済延滞による影響でADBの支援は停止していたものの、同国の経済分析やGMS枠組みでの技術支援などを手掛けました。当時は、経済関連指標などの統計データを入手することが非常に困難で、IMF4条協議へ参加の際には、ミャンマーの経済状況および政策について政府当局者と協議を行うIMFや世界銀行のミャンマー担当チームと協力し、ADB独自の経済見通しについて報告書を作成する必要がありました。そのため、急遽ミャンマーへ出張して2日間でデータの収集や分析を行い、本部で上司に報告した後、ミャンマーにとんぼ返りして4条協議に参加するという荒業を行ったのを覚えています。その折、お世話になった相手国政府の関係者に、ADBが将来ミャンマーに事務所を構えることがあれば是非あなたに来てほしいと言っていただいたことは、開発分野に身を置くものとして大きな喜びとやりがいを感じました。後年ミャンマー事務所に赴任し、それが実現した時には感慨無量でした。2021年初頭から、ミャンマーでは混乱が続いていますが、道半ばである国家再建や経済復興が一日も早く再開され、ADBも通常業務に戻れることを心から願っています。
2010年から7年勤務したベトナム事務所では、チームリーダーとしてCPSの策定と実施、融資や技術支援案件のとりまとめ、政府への政策提言、ドナー間調整などを担当しました。私が赴任したちょうどその年にユネスコ世界ジオパークに認定された、ハザン省のカルスト高原は世界的に知られているものの、同省の貧困率は30%を超えており、人々の所得や生活水準を向上させていくことが急務でした。その切り立った山が並ぶ多くの村落では、斜面の小さな貯水池に溜めた雨水を生活用水として使用しており、上から眺めるとその水は深緑の色彩で一面を染めていました。現地の役人に「あの水は飲料ではありませんよね」と尋ねてみると、「ここでは水質を問題にできないほど安定した水資源の確保が困難なのです」と悲しそうな顔で言われたことに衝撃を受けました。そこで早速ハザン省やその周辺地域を対象とした、水源の確保や安全な上水供給を目的とする小規模インフラ整備事業を立ち上げました。
キャリア・エピソード
総裁室での勤務を通じて、大きな視点からADBの業務全体に関われたことは、私の原点を見つめ直す良い機会となりました。特に印象深いのは、2003年〜2004年にかけて初めて組織的に行われたADBの貧困削減戦略の再検討に係る作業です。当時の千野総裁を補佐する上でこのプロセスに関われたことは、様々な角度から貧困を考える機会となりました。速やかな貧困削減に最も重要なのは貧困層の堅実かつ、持続的な経済成長であり、ADB最大の目標である貧困削減に向けて業務を改善する上で、その成果は極めて重要な意味を持ちます。既存の貧困削減戦略を見直した結果、民間部門参加型のインフラ整備や、収入以外の側面が貧困に及ぼす様々な影響に対する考察、環境やジェンダーなど、横断的な開発課題を重視することの必要性も浮き彫りとなりました。
また、このプロセスを通じて、経済的に困窮しているだけでなく、医療や教育などのよりよく生きるためのサービスを受ける機会が奪われた状態、また、自力ではその状態から抜け出すのはとても困難な状況にいる人々の尊厳や権利が剥奪(deprivation)されていることへの憤りを感じ、私はそのために闘っていることに改めて気づかされました。これは夢とか志という次元とは別の、本能とか情動に近い何かに突き動かされるような感情なのだと思います。ADB などの国際機関で働くことを目指したのは、日本では想像できない過酷な環境の中で命の危険と隣合わせの様々なdeprivationと闘う人々と寄り添うには、一国の政治や外交のみには方向づけられない枠組みの方が望ましいと感じたからです。
ADBで働く上で、協働する相手国政府関係者や、支援の受益者と直接触れ合える現場にこだわってきました。より大きな仕事ができるポジションで働くことより、むしろ「この国のためなら」と思える国で働くことを優先しました。選択を迫られる局面では、いつも初心に立ち返ることを心がけています。国際機関での開発支援に身を投じたのは業務資源などを管理するためではなく、deprivationと直接対峙したいという目的意識をもとに、自ら主体的に行動を起して進むべき方向を決めてきました。その結果、ベトナムで7年、ミャンマーで3年3ヶ月、フィールドで開発問題の複雑さやジレンマなど様々な要因が混じりあう中、努力が実る喜びも身をもって体験してきました。
SDGsへの取組み
SDGsの実施において、ADBはアジア・太平洋地域における開発途上国・地域の経済社会開発に多岐にわたって貢献しています。各国の開発分野における優先事項をもとに作成されたCPSや成果フレームワークはSDGsと明確に連動しており、また、相手国政府がSDGs達成に向けて作成したアクションプランを後押しすべく、ADBは政策提言やナレッジの共有を通じた支援などを行っています。また、SDGsは、政府や自治体だけでなく民間企業や消費者など社会全体での認知度が高く、様々なレベルでの努力や貢献を目にするのは喜ばしく感じます。現地事務所では、投資や貿易を行っている地元企業の関係者と意見交換する機会も多く、彼らのビジネスプランにSDGsが盛り込まれるようになり、その精査や実施に関して助言を求められたり、ADBとの協働についての提案を受けることもあります。
仕事のやりがい
私自身の経験から貧困の連鎖を断ち切ることは可能だと信じていますし、その実現のために必要な資源や知識、機会を提供する仕事に長年携わってきました。担当国の開発計画の策定や事業の実施を通じた取り組みが実を結び、貧困削減や経済成長の過程に携われることはとても貴重な経験であるとともに、そこに立ち会わせてもらっていることへ感謝しています。特に担当国に赴任している時は、相手国の政策担当者や国民に寄り添うように努めているほか、脈々と続いてきた歴史や文化、風習などに目をむけることを大切にしています。開発途上国では人材そのものが不足していると考えられる一方で、それは数の問題であり質の問題ではありません。政策決定やその実施を担う官僚や政治家のトップには、先進国にも引けを取らない、洞察力や判断力、決断力を持った人材がいます。ただその絶対数が少ないために、そうした高度な知見が国家運営の隅々にまでは行き渡らないことが問題です。
求められるスキルや経験
情熱を注ぎたいことを探している人、妥協しないで関心のある事を考え続け追求を止めない人。メンタルの強さや、柔軟性、適応力も大きな要素となります。開発に携わる仕事は、決して便利で快適とは言えない開発途上国での生活を心から楽しみ、人種や国籍、文化や言語が異なる環境でも自分自身を見失うことなく、人生を前向きに生きられる人に向いていると思います。日本人が国際舞台に飛び出していくためのスキルとして英語がよく挙げられますが、会話があまり得意でない場合でも、非ネイティブを含む様々な話し方や発音を理解し、分かり易い自分自身の言葉で話せると強みになると思います。また、論理的で明瞭な文章が書ける人材は重用されます。それに理解力、思考力、想像力、共感力、問題解決能力が加われば、日本でも世界でも通用すると思います。
コロナ禍が収束した後もリモートワークは継続して行くと思います。顔の見えない環境で円滑に業務を進めるためには、相手に対する細やかな気配りと同時に、誤解や曖昧な結論を避けるための明確なコミュニケーションが大切になります。
プライベート
踊るのも観るのも人生を前向きにしてくれるダンスは、私にとってかけがえのないものです。映画もよく観ますが、美しい映像と印象深い台詞が楽しめる作品が特に好きです。また、読書など気がつくと活字を追っています。マンガも好きで、バレエを扱った「アラベスク」や「SWAN」は長年の座右の書、また息子に影響され「銀魂」にもはまっています。
最近では、ADBを退職した後の人生設計も視野に入ってきました。これまでのキャリアにおいては、機会の平等化や人的資本への投資に向けた支援に焦点を当ててきました。また、学校教育や職業訓練などを通じた支援は、人々の生活の改善につながる有効な解決手段となりえます。新型コロナのパンデミックにおいては、貧しく脆弱な域内の人々をより多く保護し、経済活動をできる限り速やかに回復させるための取り組みを行なってきました。同時に、社会的孤立の広まりや、自己肯定感の低下、心身の健康問題に悩む人々が増加したと思います。今後、経済的支援が解決に結びつかない状況に陥っている人々に寄り添うような活動に従事したいと考えています。より良い世界の実現に向けて、経済的豊かさと幸福との関係についても考察してみたいと考えています。